スミスとカーロスのその後は?


出展元:http://griotmag.com/

スミスとカーロスは示威行為を行なったことで、その後長期間、

アメリカスポーツ界から事実上追放され、批判に晒されました。

メディアからも非難・中傷され、彼らのもとには殺害予告の

脅迫文が何通も届けられたといいます。

時代は流れ、アメリカの人種差別が撤廃されたのちに、

スミスとカーロスは人権のために戦った英雄になりました。

歴史はスミスとカーロスの行為に正当な評価を下し、

サン・ホセ州立大学には2人の行為を祝して像が建てられます。

それでは、共に闘ったピーター・ノーマンはどうだったのでしょうか?

スポンサードリンク

ピーター・ノーマンのオリンピック後は?

当時のオーストラリアは非常に強い白人至上主義で、人種差別への抗議へ

加担した白人として、ピーター・ノーマンは歴史から抹消されたかのような

扱いを受けました。

1972年のミュンヘンオリンピックでも、トップアスリートとして

出場資格を得たのにもかかわらず、ブラックリストによって

オーストラリア代表から除外され、アキレス腱を痛めて

ピーター・ノーマンはスポーツ界を引退。

その後は、体育の教師や肉屋などの職を転々としていたそうです。

ピーター・ノーマンは事実上白人中心のオーストラリア社会で家族ともども

疎外されてしまったのです。

除け者にされ、無視された存在となった元アスリートは、アルコール中毒と

うつ病に苦しんだそうです。

何度も「あの行動は誤りだったと認めれば制裁は解除する」という

申し出があったにも関わらず、自身の行動が正当だったと信じる

ピーター・ノーマンはそれを頑としてはねのけ続け、政府と社会から

受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま、

2006年に心臓発作で亡くなりました。

彼の葬儀ではトミー・スミスとジョン・カーロスが棺を担ぎました。


出展元:http://www.smh.com.au/

ピーター・ノーマンが1968年メキシコで出した200m陸上での

20.06秒の記録は、未だオーストラリア記録として破られていません。

それにも関わらず「100人のオーストラリアの偉大なアスリート」の

名簿にはピーター・ノーマンの名前はありません。

本来なら英雄になるはずが、人権のために立ち上がったため批判され、

生前は遂に認められず、自国開催の2000年のシドニーオリンピックにも

招待されませんでした。

ピーター・ノーマンの死後6年後の2012年、オーストラリア政府から

正式な死後謝罪を受けました。

政府は、ピーター・ノーマンに対し、

「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに
代表として送らなかったオーストラリアの過ちと、ピーター・ノーマンの人種間の
平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかったこと」

を謝罪しています。

今とは比較にならないほどに人種差別が強かった時代に

これだけ勇気ある行動を取られたピーター・ノーマンに

心からの敬意を表したいと思います。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

改めて調べてみましたが、その壮絶な人生に

驚かされました。

ピーター・ノーマンの甥であるマット・ノーマンは映画監督で、

叔父ピーター・ノーマンの行動と、黒人差別における白人の役割とは?

というテーマでドキュメンタリー映画「salute(サルート)」にしています。

宜しければ調べて見られてはいかがでしょうか?

筆者も当日は襟を正して番組を見ようと思います。

最後まで記事を読んで頂き有難うございました!